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その他

岩波文庫で読みましょう

昔の本屋は出版業も兼ねていて、自社の本を売るだけでなく、他店の本を取り寄せたり、古本も売っていた。大坂から出た本は実用書が多い。
「読み書きそろばん」と言うだけあって商いの街・大坂では、現場での修業ばかりではなく、書物での勉強も盛んだったということが証明される。

萬国名所図絵より大阪心斎橋通街 大阪心斎橋通街(「萬国名所図絵」より)

百人一首一夕話 「百人一首一夕話」

心斎橋筋(特に南船場方面)は、江戸時代から本屋街として有名で、情報発信の中心地であった。
現在のカワチの場所(心斎橋筋一丁目)にあった敦賀屋九兵衛は、尾崎雅嘉著「百人一首一夕話」(ひゃくにんいっしゅひとよがたり)という本を出版。
たちまちベストセラーとなった。
老若男女を問わないストライクゾーンの広さがヒットの勝因か。なお、現在でも名著の一つとして岩波文庫で内容が確認できる。

百人一首一夕話の刊記 「百人一首一夕話」刊記

くつのまま奥までどうぞ

江戸時代の大丸は、まずのれんをくぐって土間、それから畳の間(または板の間)という構えだった。
いま思うと小心者には、ひやかすにも勇気がいりそうだ。
これを踏襲したのか、明治になってそごう、大丸が呉服店から百貨店に転身した後も長らく、じゅうたんを敷きつめた店内には履物をぬいで入るよう、出入り口には下足番がつめていた。

江戸時代の店頭風景 江戸時代の店頭風景(「摂津名所図会」)

大正5年5月15日に、大丸は下足番をなくし、履物のまま入店できるようにした。これが全国初ではなかったことは確かだが、画期的な試みであったことは間違いない。
土足厳禁がどれほど人々に近寄りがたい印象を与えていたかは、土足入店可になってから、店入り3倍、売り上げ2倍増(「大丸二百五拾年史」)という数字になってあらわれている。

大丸呉服店 新館店前の絵葉書 大丸呉服店・新館店前(絵葉書)
建物は洋風だが、大方の人は和服を着ている

タレントショップの先駆

昭和8年頃から心斎橋筋1丁目、現在のドトールコーヒーのあたりに、長谷川一夫が経営するフルーツパーラー「蝶屋」があった。
「食べ物はほとんど好き嫌いはありませんが・・・果物好きが昂じて、戦前大阪でフルーツパーラーを開業したくらいです。」(「舞台・銀幕六十年」長谷川一夫)。
店内には、気分の落ちつく照明が灯り、メニューの質も高かったらしく、「蝶屋」を扱ったグルメ評もいくつか残っている。芸能人が自分で店をプロデュースすることはまだ珍しく、「長谷川一夫の店」といえば、彼が接客するような誤解も生んだらしい。
どちらにせよ、盛況ではあったが、第二次大戦の空襲で惜しくも焼失。再建も試みたようだが、かなわなかった。

蝶屋のマッチラベル 蝶屋のマッチラベル

アートを支えた心斎橋筋

心斎橋筋は、意外と大阪の近代美術の発展に一役買ってきた。もともと美術というのは、パトロンなど経済的な援助の下に発展する傾向があるが、 大阪では数奇者のような芸術にも興味を持つ旦那などが、個人的に誰かを援助したようなこともあったようだ。

心斎橋の風景 心斎橋風景(絵はがき/部分)書画展と書かれた看板が見える

心斎橋筋2丁目にあった高島屋呉服店では、美術部が明治44年に創設された。大丸、そごうの各百貨店美術部による書画展などが数多く行われたし、 それを買い求める客の雰囲気もあった。

マッチラベルのデザインにデザイナー名が記載

また、大正から昭和初期にかけて前衛美術やモダニズムが流行し、宣伝広告や店舗設計などに新しい傾向の美術やデザインが積極的に取り入れられた。

商業美術が発展することでデザイナー達に活躍の場が与えられたのである。その中でも際立っていたのは丹平ハウスで、健脳丸、今治水で知られた丹平製薬では、新しい商業ビルを心斎橋筋2丁目に建て、医薬品以外にも化粧品や写真機材などの売り場を設けると同時に、ソーダファウンテン(アメリカ式のソーダ水売り場)、写真スタジオ、美容室を開いた。

また、丹平ハウス内には赤松麟作の洋画研究所や、安井仲治らを指導者とする丹平写真倶楽部も開設。ここからは多数の逸材が育っていった。