歴史資料館 風物について歴史資料館 〜風物〜

風物

ショールームは川べりに

大坂では川岸のことも浜と呼んでいたので、石屋が集まっていた当時の長堀十丁目あたりの川岸は通称「石屋の浜」と呼ばれていた。
川岸にぎっしりと各地の石材が並ぶ風景は、さながら一大ショールームと呼ぶにふさわしく、石材や製品を並べて売るだけでなく、職人がオーダーメードに応じていた。
「長堀の石浜は山海の名石あるは御影石立山和泉石など諸国の名産をあつめ其好に従ふて石の鳥居石の駒犬燈爐・・・(中略)・・・孝行臼まで拵へ賈ふなり。」 (「摂津名所図会」より)

長堀の石浜の図 長堀の石浜(「摂津名所図会」より)

位置関係図

長堀の石浜(拡大) 長堀の石浜(拡大)

浜蔵と大坂の川

大坂の浜蔵(河岸土蔵)のたたずまいは、江戸の蔵のそれとは少し様子が異なっていた。
江戸の蔵は、川面に対して屋根の妻を並べる形でほぼ整然と立っていたのに対し(図○部)、浜蔵の場合、川面に平行に妻を並べることが多かった(図○部)。
川に向けて建てられなかったのは、大坂の諸川が市街地よりもかなり低いところを流れていたことから、その傾斜地を有効利用しようとしたためと思われる。
その構造は、石柱を建て、石土台を居き、その上に土蔵を作った足駄作り(あしだつくり)ともよばれるもので、川が増水したときの水はけ対策にもなっていたようだ。

心斎橋より見た眺め 心斎橋より見た長堀の浜蔵(明治時代)川べりに足駄作りの蔵が見える

江戸川岸土の蔵図 江戸川岸土蔵図

守貞謾稿より大坂浜蔵の図 大坂浜蔵の図(「守貞謾稿」より)

江戸時代の環境保護

中国では、商売上手のことを“水でもうける”と言うそうだが、井戸水がいまいち飲料水に向かなかった大坂では、水は買って飲むものだったらしい。
「浪花雑誌 街廼噂(ちまたのうわさ)※」には、「モシ大坂も善處(よいところ)だが、水にハ少し困りヤス。皆な買水でム(ござ)りヤス。
[萬松]へゝ引堀井戸ハム(ござ)りヤせんかね。[鶴人]有ことハありやすが、泥がさして飲水にハ悪うム(ござ)りヤスから。皆な川水を買て飲ヤス。」との会話がある。
ただ、大坂の川は流通の足でもあり、また生活用水として人々の暮らしに密着していただけに、それを飲むに耐えるレベルに保つには、行政の努力も必要だった。
例えば、夏の風物だった七夕の笹流しも、寛政四年(1792)六月二十九日の口達書で、七夕短冊竹等を川へ捨てることが禁じられる等、江戸時代より、川筋に関する取締りがたびたび発布された。
しばらく大坂に滞在していた江戸の戯作者、平亭銀鶏が遊人三人の対話形式で記述した大阪見聞記。天保六年(1835)刊。

長堀川での七夕笹流し 長堀川での七夕笹流し

長堀川での生活風景 染物?洗濯?
長堀川での生活風景
(「摂津名所図会」より)

鴨川には負けますけれど・・・

甘酒は現在、冬の飲み物だが、「守貞謾稿」によれば、幕末期の京坂では夏に甘酒が飲まれていた。
(夏月専ら売り巡るものは、あまざけ売りなり。京坂は専ら夏夜のみこれを売る。)
甘酒屋が出ている橋の下に、船いけすが繋がれている姿は、しばしば見られる光景だった。
心斎橋の上は風通しが良いので、夕涼みの人をあてこんでか、橋の上に腰かけを出し、たもとに釜をすえて甘酒を供する商人の絵も残されている。

暁鐘成著の摂津名所図会大成 「摂津名所図会大成」暁鐘成著 幕末

大坂の船いけす 大坂の船いけす

船いけすは、二双の船をつなぎ、中で川魚料理を出す船料理屋。
大坂の名物であった。船中をそれぞれの客の数にあわせて二畳、三畳くらいずつ幾つとなく仕切って客をむかえ、大なるものは四方へ幕を張った。
料理は船中で調味した。炎下に納涼をとり、夕暮れに汗をぬぐうにはこの船にまさるものはなかったという。船いけすが、京の鴨川の川床に対するものだとすれば、船遊びは今で言うナイトクルーズのようなものだった。要するに、川辺の少ない大坂の川で水の上まで使わないと暑くてかなわなかったのだ。 現在のナイトクルーズは夜景も楽しみのうちだが、江戸時代では夜景イコール暗闇。闇夜にまぎれて酒盛りを楽しむも良し、商談をまとめるのも良しと、人目を気にしない時間を持つために船遊びが活用された。
コースとしては、出発点にかかわらず大川(旧淀川)まで出てうろうろするのが定石で、それをあてこんで大川には料理を売る船や、三味線をきかせる船などが客を求めて流していた。